「評決のとき」を観て
今日は「評決のとき」という名作映画についての感想を述べてみる。
あらすじは娘を暴行された父親(黒人)がその犯人(白人)を報復殺人し、裁判になるというものだが、
名場面として有名なのが主人公の白人弁護士ジェイクが、最終弁論で陪審員の説得を試みるシーンである。
インターネットなどの批評を見ると、このシーンの意味とこの映画のポイントを曲解している人が多いように思える。
多いのが「報復殺人を正当化する根拠がご都合主義だ。」「無罪判決を勝ち取る最終弁論が納得いかない。」といったものである。
この有名なシーンはジェイクが、陪審員を説得するために自分が相手の立場だったらどうかということを考えさせるために
被害者である黒人の少女を白人である自分の娘に置き換えて想像させるテクニックを使ったという場面ではない。
自分の身に置き換えたらいたたまれないという気持ちを持ってもらうためではない。
以下自分なりの解釈を書いてみる。
前提の確認をしておくと
・陪審員はすべて白人。
・最終弁弁論の前の段階で裁判は有罪・死刑の流れに傾いている。
・最終弁論直前でジェイクはカール・リー・ヘイリーに「あんたも頭の中は白人だ」と言われる。
最終弁論のジェイクの論説で以下のような話をする。
「小さな少女が買い物を終えて家路を急いでいました。・・・・
中略
「見えますか?
レイプされ、殴られ、傷だらけ
男たちの小便と精液にまみれ、血にまみれて死を待つ少女
見えますか?
想像してください。
その少女は・・・・・
・・・・・白人でした」
この後、カール・リー・ヘイリーは無罪の判決を受ける。
上記前提と最終弁論のジェイクの説得、そして判決は何を意味するか。考えてみる。
最終弁論の結果、有罪に傾いていた裁判が無罪の判決に至ったということは
黒人の少女がレイプされて暴行されても報復殺人は許さない。
しかし、白人の少女が同じことをされたら報復殺人は許容する、
ということを陪審員は認めてしまっており、
認めることを見越してジェイクは暴行を受けた少女が白人だったら、という設定を持ってきた。
つまり、ジェイクは白人が黒人を差別することを受け入れてしまっている。
白人の陪審員が黒人を差別してくれるという可能性にかけて最終弁論を行った。
そしてそれは白人が黒人を差別するという事実をジェイク自身さえも認めてしまっていることになる。
白人が黒人を差別することを認めることによって勝ち取った無罪。
この結末はハッピーエンドではない。悲しい現実の再確認である。
この結末は人種問題は依然として存在し続けることを我々に突きつける。
この映画のテーマは「報復殺人」という1つの大きな問題と並びもうひとつ大きな問題「人種差別」を基本としている。その人種差別が事件の発端として描かれており、判決に影響を及ぼしている。
この映画の製作者、原作者の立場は決して、
「差別は悪い」、とか「差別をなくそう」というメッセージを発しているのではなく、もっと根本的なこと
誰もが知っていて、誰もが拒み続けていること
「私たちは今、現に差別をしてしまっている」
という自覚の表明をしている。
アメリカという人種差別のある世界で、理想論ではなく、重い事実を認めるという第一歩を踏んだ、
人種差別という問題に真摯な姿勢で立ち向かった作品である。