君は、なぜここにいるの?

常に他人に対して思ってしまう。
君である必要あるのか。
それを行うのは君でなくてもいいのではないか。
別の人呼ぶからいいよ。
と言ってしまう。
そこで自分でなければならない、という理由を示せない人は要らないと思っている。
逆に、それは常に自分に対しても思っている。
プライベートで人と一緒に時間を過ごす時、常にプレッシャーにさらされている。
相手に時間を割いてもらっている以上、自分にしか出来ないパフォーマンスを示さなければ、そこにいてはならない。
非常に苦手な部分だ。
長期的に見れば、自分の存在価値において、絶対レベルの自信はある。
しかし、短時間に、自分の価値を見せるのは非常に難しい。
選ばれた人だけが出来ることだ。
タレント性のある者だけだろう。
しかし、実際はいわゆる地味な人もとても魅力的に感じることは多々ある。
何故だろうか。

バックグランドのある人、積み重ねがある人の、何気ない行動から、普段の行動から、その人の本業に対する成果との関連が見えるから、または見える可能性があるからだろう。
その関連性を自分のデータベースに蓄積させる事は、自分の成功や、成功する人と出会う確率、自分の周りの人を成功に導く大きな手がかりになるからだ。
その場で印象には残らなくても、後から考えると、その人の魅力が見えてくることはある。
そういった意味で、その人であるかを見極めるのは、短期と長期の二つの視点を併せ持つ必要がある。
よって、バックグラウンドのある人等は、短時間で必ずしも自分の価値を相手の基準に見合う形で表現する必要は無い。

バックグランドを含めてその人の代替性の無さを認めると言うのであれば、もっと可能性は広がる。
現時点で長期的なる功績が無い人においても、これから多大なる功績を残す人はいる。
多く、大いなる業績を残す人は晩成型である。
現時点でその人に代替性があるように感じても、後から考えればその人にはまったくのオリジナルな素養があったことになる。
それを全て見分けることなど不可能だろう。
しかし、経験値の高い人ほど見分けることが出来る。
つまり、短期的に見て代替性がありそうな人と接し、かつ実はその人が代替性の無い人だったという経験を持つ人。
その経験がある人は、自分の人を見る眼を改める。
そして、見る眼を改めた現在の自分でも人を見る眼が確かでは無い、と言う事実を受け入れる。
これはまったく相反する行動を、同時に取らなくてはならない。
人を見限ったり、人の可能性を予感する力を持ち、かつ自分の眼はまだまだであると言う謙虚な姿勢。
結果、
人を見る眼を改めた経験が多いほどに人を見る眼がある。
人を見る眼を改めた経験が多い人は自分の眼を常に疑っている。
疑い続けるだけの度量がある、それほどの欲がある人だけが見えるものがある。
つまり、
多くの素晴らしい人間と付き合っている人ほど、人を見限ることが無い。
のである。

今現在の結果を出せていない者も、必要以上のプレッシャーを感じる必要は無い。
「業績を残す前の自分」という情報を与えてあげている、という名目はどんな人間でも持つことが出来るのである。
未来の自分が現在の自分を肯定してくれる。
そして、そのような姿勢が、上述したような素晴らしい人間と付き合っている人たちとの出会いを生む。
そして、結果自分の業績に対して手助けをしてくれることがある。
今は「業績を残す前の自分」という情報を与えているが、これからの自分を見てほしい、と言う謙虚な姿勢が成功への近道だろう。