オラが村のヒーロー

国民皆が認める人気者が居なくなった。国民皆が歌える歌が無くなった。と言われて久しい。何故そのようになってきたのか、演者に圧倒的な存在感を持つものがなくなったのか。人々が皆の人気者を求めていないのか。

この議題は、実は世界の一体化、統一化と深く関わりがある。世界の一体化や統一化とは、メディアの広がりによる日本レベル、または世界レベルによる情報格差が無くなり、世界が緩やかながらも同じ価値観で統一されつつある状態のことを指すとしよう。

・皆の人気者とはなんだろうか。

一 般的にタレントと言われる人間は舞台や地方局の番組で経験を積んでから実力、人気が上がっていくのに伴い、活動のフィールドを大きな物に、全国放送のゴー ルデンタイムの番組に出演する。歌手も同様だ。小さなライブハウスから徐々に規模の大きな会場でライブを行い、ゴールデンタイムの歌番組に出場する。

・ファンとはなんだろうか。

何故、誰かのファンになろうと思うのだろうか。単純にその人が魅力的であるということ以外に、大きな理由としてその人が自分にとって特別であると感じることができるかどうか。その人が自分を楽しませようとしてくれていることを感じられるかどうか、が重要だ。

多 く、実力の高いタレントは多くの人に対し、より大きなプラスの感情をファンに与える。しかし、この「多くの人に対し」というのは諸刃の剣のような性質を秘 めている。自分だけが知っていて、魅力的だと思っていた人が、広く名が知られる人気者になったと時にはうれしさと同居する寂しさがある。

何故か。自分とその人の距離が遠くなるからである。舞台や小さなライブハウスであれば、パフォーマンスの後に直接声をかけ、コミュニケーションが取れる。しかし、大きな舞台に上がる人とはそれができない。

大 きな舞台で活躍する人からすれば、自分は大勢のうちの一人だという現状、自分を特別視してくれるわけではないという現状は、その人に対して特別な感情を抱 きにくくなる。かつて数十年前までは、自分たちの人気者が皆の人気者になることは自分たちにとって誇りだった。大きな舞台へあがることは、無条件の成功と 同義だった。世界の統一化の波に乗り、それが良い事であると誰もが疑わなかった。

しかし、今は違う。

大 きな舞台に上がっていることに価値を見出す事が以前に比べ格段に小さい。情報の発達により、技術の高さには皆飽きているから。インターネットで検索すれ ば、DVDで過去の名作を見れば、広く大きな楽しさを提供してくれる娯楽が多いのだ。反面、情報技術が発達しても、簡単に手に入らない種の喜びがある。技 術のある、皆を楽しませる技術ではなく、自分を特別扱いしてくれる喜び。それこそが現在のエンターテインメントの核である。

現 在、エンターテインメント業界のトップを占めるテレビ業界や、音楽業界の経営層は世界統一化こそが未来だと信じて育った世代である。しかし、若者は世界の 多様化こそがこれからの世界を作っていくことを体で感じている。テレビや音楽産業の空回り感はこの差から生まれている。

皆に好かれる人気者ではなく、自分を好きでいてくれる人こそが真の人気者になれるのではないか、演者とファンが一対一の相思相愛の状態こそがあるべきエンターテイメントの姿ではないか、と人々が気付き始めている。