何かを実現する過程で人を説得する必要があるとき

何かを実現する過程で人を説得する必要があるとき

自分が実現したいことの絵を描き、その魅力を語り、何々の理由でこの案は実現するだろうと説き、助力を求めた場合。
最後に相手が、その案は既に他者が実現しているのではないか、と言った場合。

実現しているのでは?という質問は、その案が既に実現可能であると判断し、先を越されている可能性があることを問題視しているということ。
つまり、この質問をした後、相手が先行者の存在に関すること以外の質問をした場合、その相手にはまともな判断力は無いと言える。

先例が無いこと、つまり提案に新規性があることが優位性であり、それを実現していく意思と、本人にとって金銭的以外のメリットがあることが優位性となる。
先例がない場合に実現の可能性を判断するには、実行者の類似案件における実現力を類推適用する。
つまり、発言者の信用や経歴、経験が最も重要視される。

しかし、この「新規性」と「経験」という言葉がポイントである。

新規性が小さい場合、類似の案件の経験がある者がいる可能性が高い。
そして、実行者がその経験者である場合は一定の説得力がある。
つまり、経験者が優位性を持つ可能性が高い。
さらに言い換えれば、その業界で老いた者が優位性を持つ可能性が高い。

新規性が大きい場合、類似の案件の経験がある者がいる可能性が低い。
というよりは「類似の案件」の定義が広がる。
定義が広がることにより、経験が優位性となるウェイトが低くなり、相対的に新規性の優位性が高くなる。
これにより、若者や未経験者が新規参入する可能性が生まれる。

未経験で規模の大きなことを本当に実現したいと思っているならば、
助力を求める際には、新規性があることの確認を入念に行う。
そうすれば、経験の無いことを理由に実現性を疑われた場合、見当外れな指摘であると言える。

アイデンティティの作り方

自分らしさとは何か。個性とは何か。それは他の存在との違いである。
何と何を比べて違うとするのか。それは環境への対応の仕方。最適解を出すこと。それが生まれながらの自分の特徴の肯定へとつながる。自分という存在の肯定につながる。

自分が過酷な環境に生まれたとを嘆くものがいる。確かに運悪く、人よりも過酷な環境に生まれることはある。しかし、本当にそれは過酷なのか。
その過酷さは同様の類型の過酷さにおいて一番なのか、と考えると実は一番ではないことがほとんどである。もっと苛酷な環境に生まれ、耐えてそれを撥ね退けて幸せを掴んだ人も居る。その場合、自分の過酷さを嘆くよりも、それを撥ね退けた人の方法を学んで自分に適用すれば良い。しかし、本当に自分が一番だった場合はどうするのか。自分で考えるしかない。多くの場合、失敗するだろう。多くの失敗に埋もれそうになりながら、わずかな可能性を潜り抜け、もしその過酷な環境を克服することが出来たのなら
それはとてもすごいことだ。
何がすごいかと言えば、その者はその克服方法の先駆者であり、第一位の存在になれるという事。その克服方法において、唯一無二の存在になれるのだ。
すると、何が起きるか。
その者の個性は誰も否定できない。なぜならその存在は唯一無二であるから。
すると、逆転現象が起きる。あれほど無くなって欲しかった過酷な環境が、自分を絶対的に肯定してくれる直接的な根拠と成り代わる。そして、どこかの誰かが同じ類型の過酷さに出会った時、唯一無二となった者の採用した方法を使用して困難を切り抜ける。

その最適解が真似されるということは、ひとつの大きな流れを生み出す。特定の特徴を持つものは、環境に対応する際に、特定の武器を使用するようになるという動きが生まれる。その集団が共有する最適解を提供したことになる。数多くの、強力な最適解を持つ者は、その最適解の内どれを広めるかの決定権を持つ。それは集団の性質を自由に方向付けられると言うことを意味する。

過去の人との契約

自分らしさとは何か
既存のものから自分の好きなものをリストアップすること。
またはそれらから新しい組み合わせを作り出すこと。
自分が好きなものを表明するということは、皆に自分の好きなものを広めること。
人々に受け入れられれば、それは世の中に広まっていく。
結果、自分が好きなものが未来に残っていく。

今自分が何を行うか、何かを行うときにどの様に行うか、ということにおいて過去のものを参考にして行う場合、それは過去に誰かが残したかったものの有用性を享受しているという事である。

◇◇◇

今の自分の存在と今の自分の状況は全て生まれてから今まで自分が望んだことの集大成であり、
自分が生まれる前から望んできたことの集大成である。
なぜなら、今の自分とは生まれてからの数限りない選択肢を取捨選択し続けてきた結果であり、
先祖代々が選んだ選択肢の結果だからである。

◇◇◇

太古の昔、人は火を使うことを覚えた。
そして、火を使うという知恵は、当然のごとくその子にも継がれて行く。
最初に火を使った者は思っただろう。
この革命的な知恵は、自分がいなくなった後の世界でも広まっていくだろうと。
この知恵の恩恵を享受して子孫達に繁栄してほしいと。
数ある選択肢の中から、「道具を使用することによる恩恵を享受する」という手段をもって、他の生物に対し優位性を築いて欲しいと。

現在、地球上で火を使わない民族は存在しない。
地球上全ての人が火の恩恵を受け、生活の中で使用している。
人生の一部に火を使用することが組み込まれている。
はるか昔に彼の発明した物は、数百万年後の今日なお、地球上に存在する全ての人の行動に対して強制力を持っている。
革命的なる発想は、遠い先の未来に生きる、多くの人の生活をダイレクトに制御する。
利便性という魔法はそれほどまでに強大で、絶対的な力だ。
そしてそのことは、彼の残した英知が、現在の人類の特性を決定付けているということ。
彼の残した英知が、人類のアイデンティティを決定したということである。

君は、なぜここにいるの?

常に他人に対して思ってしまう。
君である必要あるのか。
それを行うのは君でなくてもいいのではないか。
別の人呼ぶからいいよ。
と言ってしまう。
そこで自分でなければならない、という理由を示せない人は要らないと思っている。
逆に、それは常に自分に対しても思っている。
プライベートで人と一緒に時間を過ごす時、常にプレッシャーにさらされている。
相手に時間を割いてもらっている以上、自分にしか出来ないパフォーマンスを示さなければ、そこにいてはならない。
非常に苦手な部分だ。
長期的に見れば、自分の存在価値において、絶対レベルの自信はある。
しかし、短時間に、自分の価値を見せるのは非常に難しい。
選ばれた人だけが出来ることだ。
タレント性のある者だけだろう。
しかし、実際はいわゆる地味な人もとても魅力的に感じることは多々ある。
何故だろうか。

バックグランドのある人、積み重ねがある人の、何気ない行動から、普段の行動から、その人の本業に対する成果との関連が見えるから、または見える可能性があるからだろう。
その関連性を自分のデータベースに蓄積させる事は、自分の成功や、成功する人と出会う確率、自分の周りの人を成功に導く大きな手がかりになるからだ。
その場で印象には残らなくても、後から考えると、その人の魅力が見えてくることはある。
そういった意味で、その人であるかを見極めるのは、短期と長期の二つの視点を併せ持つ必要がある。
よって、バックグラウンドのある人等は、短時間で必ずしも自分の価値を相手の基準に見合う形で表現する必要は無い。

バックグランドを含めてその人の代替性の無さを認めると言うのであれば、もっと可能性は広がる。
現時点で長期的なる功績が無い人においても、これから多大なる功績を残す人はいる。
多く、大いなる業績を残す人は晩成型である。
現時点でその人に代替性があるように感じても、後から考えればその人にはまったくのオリジナルな素養があったことになる。
それを全て見分けることなど不可能だろう。
しかし、経験値の高い人ほど見分けることが出来る。
つまり、短期的に見て代替性がありそうな人と接し、かつ実はその人が代替性の無い人だったという経験を持つ人。
その経験がある人は、自分の人を見る眼を改める。
そして、見る眼を改めた現在の自分でも人を見る眼が確かでは無い、と言う事実を受け入れる。
これはまったく相反する行動を、同時に取らなくてはならない。
人を見限ったり、人の可能性を予感する力を持ち、かつ自分の眼はまだまだであると言う謙虚な姿勢。
結果、
人を見る眼を改めた経験が多いほどに人を見る眼がある。
人を見る眼を改めた経験が多い人は自分の眼を常に疑っている。
疑い続けるだけの度量がある、それほどの欲がある人だけが見えるものがある。
つまり、
多くの素晴らしい人間と付き合っている人ほど、人を見限ることが無い。
のである。

今現在の結果を出せていない者も、必要以上のプレッシャーを感じる必要は無い。
「業績を残す前の自分」という情報を与えてあげている、という名目はどんな人間でも持つことが出来るのである。
未来の自分が現在の自分を肯定してくれる。
そして、そのような姿勢が、上述したような素晴らしい人間と付き合っている人たちとの出会いを生む。
そして、結果自分の業績に対して手助けをしてくれることがある。
今は「業績を残す前の自分」という情報を与えているが、これからの自分を見てほしい、と言う謙虚な姿勢が成功への近道だろう。

21世紀になって10年も経つけど

大して未来になっていなくないか?空飛ぶ車も出来てないし、人型ロボットも人間と同じように話したり、動いたりするのはまだまだずっと先だろうし。こんな科学技術の進歩速度ではドラえもんの道具なんて22世紀が来たって絶対実現しないのだろうな。という不満ともとれる意見をよく聞く。
誰かが想像した、主に科学の進歩によってもたらされる恩恵は未来の面白さを予感させてくれる。それと比較して現在の技術の進歩を嘆くのはある程度真っ当だろう。あれだけすごいと思った想像と、現実を比べれば、そこに大きな溝は当然出来る。そういった意見に対して、しかし現実だってすごい。携帯電話やインターネットなんて二十年前には一般に普及するなんて皆考えもしなかっただろう。と言う人も居る。
しかし、私はそれらの意見を聞いて、今がどうであるとかいう事よりも、もっとすごいと思う事がある。それは少し昔に未来を想像した人たちの事。実は私達は未来を想像する時に、誰かが想像した物を借りて、それを未来のイメージとして自分の物のように定着させている。そしてそれらが多くの人の持つ、未来の普遍的なイメージというものに何時の間にか成って行く。そして人々が何故そのイメージを未来像として採用するかと言えば、その提案された未来の形が拒む事の出来ないほどの魅力を放っているから。そもそも、誰かが想像した物と、現実を比較するという事など、大それている。想像は何でも有りの世界で、予測などでは決して無い。誰かが有ったら面白いだろうな、と考えただけなのにそれをたどり着くべき未来のように感じる人も居るという事実。未来をテーマとした創作物。それは、未来という、本来予測など出来ない物を人々にも想像させ、その想像すること自体に楽しさをもたらし、今生きている人々のハートを鷲掴みにするパワーを持つ物なのだ。

オラが村のヒーロー

国民皆が認める人気者が居なくなった。国民皆が歌える歌が無くなった。と言われて久しい。何故そのようになってきたのか、演者に圧倒的な存在感を持つものがなくなったのか。人々が皆の人気者を求めていないのか。

この議題は、実は世界の一体化、統一化と深く関わりがある。世界の一体化や統一化とは、メディアの広がりによる日本レベル、または世界レベルによる情報格差が無くなり、世界が緩やかながらも同じ価値観で統一されつつある状態のことを指すとしよう。

・皆の人気者とはなんだろうか。

一 般的にタレントと言われる人間は舞台や地方局の番組で経験を積んでから実力、人気が上がっていくのに伴い、活動のフィールドを大きな物に、全国放送のゴー ルデンタイムの番組に出演する。歌手も同様だ。小さなライブハウスから徐々に規模の大きな会場でライブを行い、ゴールデンタイムの歌番組に出場する。

・ファンとはなんだろうか。

何故、誰かのファンになろうと思うのだろうか。単純にその人が魅力的であるということ以外に、大きな理由としてその人が自分にとって特別であると感じることができるかどうか。その人が自分を楽しませようとしてくれていることを感じられるかどうか、が重要だ。

多 く、実力の高いタレントは多くの人に対し、より大きなプラスの感情をファンに与える。しかし、この「多くの人に対し」というのは諸刃の剣のような性質を秘 めている。自分だけが知っていて、魅力的だと思っていた人が、広く名が知られる人気者になったと時にはうれしさと同居する寂しさがある。

何故か。自分とその人の距離が遠くなるからである。舞台や小さなライブハウスであれば、パフォーマンスの後に直接声をかけ、コミュニケーションが取れる。しかし、大きな舞台に上がる人とはそれができない。

大 きな舞台で活躍する人からすれば、自分は大勢のうちの一人だという現状、自分を特別視してくれるわけではないという現状は、その人に対して特別な感情を抱 きにくくなる。かつて数十年前までは、自分たちの人気者が皆の人気者になることは自分たちにとって誇りだった。大きな舞台へあがることは、無条件の成功と 同義だった。世界の統一化の波に乗り、それが良い事であると誰もが疑わなかった。

しかし、今は違う。

大 きな舞台に上がっていることに価値を見出す事が以前に比べ格段に小さい。情報の発達により、技術の高さには皆飽きているから。インターネットで検索すれ ば、DVDで過去の名作を見れば、広く大きな楽しさを提供してくれる娯楽が多いのだ。反面、情報技術が発達しても、簡単に手に入らない種の喜びがある。技 術のある、皆を楽しませる技術ではなく、自分を特別扱いしてくれる喜び。それこそが現在のエンターテインメントの核である。

現 在、エンターテインメント業界のトップを占めるテレビ業界や、音楽業界の経営層は世界統一化こそが未来だと信じて育った世代である。しかし、若者は世界の 多様化こそがこれからの世界を作っていくことを体で感じている。テレビや音楽産業の空回り感はこの差から生まれている。

皆に好かれる人気者ではなく、自分を好きでいてくれる人こそが真の人気者になれるのではないか、演者とファンが一対一の相思相愛の状態こそがあるべきエンターテイメントの姿ではないか、と人々が気付き始めている。

他人の遺伝子を書き換える

全ての生物は遺伝子の乗り物である。という説がある。
自分の遺伝子をより多く世界に残すことを目的として生物は存在し、利己的と思える行動も、全ては「種」を最優先し、残すための最適な行動をとる結果である、という考えだ。

まず、生物の遺伝子は経験や環境から得た情報を反映し、次の世代に伝えるべき遺伝子を加工する。その遺伝子という設計書を次の世代に渡すという流れがある。人の性格、性質、感情といったものは高度な情報処理の結果出来上がった判断基準であるという見解は、認知心理学発達心理学の世界でも広く受け入れられているようだ。
では、その性格などの情報は、どのようにして遺伝子に刻まれるのか、何故刻まれるのか?それに対しては、下記のようなプロセスで説明がつく。
生物が生きてきて、その間に重要な情報を手に入れたとき、それに対しての適切な反応を解答として認識し、覚えておかなければ次の世代で同じ事象に対面したときに誤った選択をしてしまう。すなわち、選択肢を間違えることによる「死」が待ち受ける。それを避けるために遺伝子に特定の状況に遭遇した際には特定の反応を起こすようにプログラムを設定しておく。しかし、「特定の状況」や「特定の反応」を遺伝子に列挙して情報を載せていたら、遺伝情報などすぐにパンクしてしまう。それを避けるため、「特定の状況」や「特定の反応」をデフォルメして情報として持っておく。
その遺伝情報を、人は性格、性質、感情と呼ぶ。

ところで、私達は人生を歩む上で、今までに数回、または数十回と、自分の価値観を根底から覆されるような経験をしている。ある時は、身に迫る危機を感じて、事故や病気といった生命にかかわる事件に立会い、考え方を変える。またある時は、人と接していく上で、感動する気持ちのやり取りを経て、考え方を変える。文化や人種、政治体制、差別といった社会的な境遇を認識することで新たな価値観を形成することもあるだろう。また、本を読んでそのような経験をした人も要るだろうし、音楽を聴いたり映画を見て同様な経験をした人もいるだろう。そんな経験をした後、人は確かに「自分は変わった」と感じる。正しいだろう。

そして、実はきっとそれらのことは、遺伝子に刻まれる。なぜなら、前述したように、「自分は変わった」と感じる時、その人が最も重要視する「特定の状況」と「特定の反応」を確定するからである。つまり、人の判断基準や価値観によって人はその存在の最も重要な根幹的な部分、「自分が自分であること」を形作るのである。

さて、冒頭の生物は遺伝子の乗り物であるという説に沿って考えると面白い仮説が立てられる。「自分の遺伝子をより多く世界に残すことを目的とする」という言葉を少し拡大解釈してみよう。「自分の後の世代に少しでも多く自分の情報を残すことを目的とする」、とした場合、目的の達成のためには、
①自分の情報を遺伝子に乗せて残す、のほかに
②自分の情報を他人の遺伝子に乗せる
という手段がある。

②は何を言っている?どうやって?と思うだろうか。

答えは既に出ている。
自分の遺伝子を受け継いでほしいと思う人間を「変えて」やればよい。
その人の価値基準や判断を覆すほどに感動させてやればよい。たとえば、言葉や音楽で。

本エントリーの題名を実行する方法。