地球レベルでの優位性

人がこの地球の支配者だという前提が当然のように受け入れられているが果たしてそうだろうか。知能の高さこそが支配力を決定づけており、自分の思った通りに環境や他の生物や他の種の増減を思い通りにできるという考えがある。動物から見れば一理あるかもしれないが植物も含めるとどうだろうか。深海生物まで含めると。微生物まで広げればどうか。人間程度が地球を支配しているというには程遠いのではないだろうか。
花は虫や鳥を使役して繁殖の道具としている。しかし虫や鳥は花をただの食料の提供者としてしか認識していない。道具にされている側が自分が対象を一方的に捕食しているという認識をしているのだ。それと認識させることなく相手を支配する。そのためには相手が求めるもの、つまり蜜や花や実を提供することが必要だ。人にとってのそれは何か。わかる者はいるだろうか。

面白いことと面白い人

「面白そうなこと」をしている人の話はつまらない。
なぜだろう。
いろいろな経験がある方がいい、または、欲望に忠実な人の方が魅力的だ、という意見に無条件で迎合する人は多い。しかし面白そうなことは面白そうなことの結果が見えやすく、実行した後に受け取れるその満足感がわかりきっている。そして実際それをやりました、という人がその一連のことを人に話しても、聞いている側は想像した通りのことをして想像した通りの面白さを聞かされるだけになってしまう。

面白さとは根本的に未知や予測不能なことに潜んでいる。

「面白そうなこと」をしている人がいる一方で「面白くなさそうなこと」を面白そうにしている人がいる。オタク的な志向を持つ人や学者が研究対象にのめりこむことがいい例だろう。ほかの人からすれば何が面白いのかわからない。けれどもその人たちによくよく聞いてみるとそこには今まで知らなかった奥深さや魅力が見えてくる。そして思う。なぜ自分はこんな魅力的なものを見逃していたのかと。とっかかりはしかしその人たちがその対象に惹かれる姿こそが魅力的であることだ。

彼らはほかの人たちに理解されようとか、面白いものを知っている自分を作り上げてそれをネタにセルフプロデュースしようという打算がない。しかしそれでもその対象に惹かれざるを得ない。そしてその対象を何らかの形で理解しようと努めたり発展させていく姿こそが、何かわからないがこの人たちは何かすごいものと相対しているのではないかという凄みを発する。
彼らには面白いことに関して、ほかの人間にはない資質がある。面白くなさそうなものを面白いことに昇華させる能力だ。

「面白そうなこと」をしている人と「面白くなさそうなこと」をしている人。
その違いは面白いものを消費する人か面白いものを作り出す人かの違い。
そして不思議なことが起こる。
「面白そうなこと」をしている人は面白くないし、「面白くなさそうなこと」をしている人は面白い。

命とお金

「武士道とは死ぬことと見つけたり
面白い表現だ。
命よりも優先順位の高い何かを見つけそれを実行することに意義があると。
命はお金と似ている。
持っているだけではガラクタだが、それを何に使うかを選択することがその人のアイデンティティを確定する。

振り子

組織の中の部分は組織の目的に従い、自らの形を最適化していく。 
 
■最適化のボトムアップトップダウン 
 企業の中でメンバーは企業の求めるものに変化していく。
 社会は企業に適切な形になることを求める。
 世界情勢は各国に影響を与え、各国はその情勢に合わせ判断を行う。
 組織がその構成部分に対してそれを求めることもあるし、構成部分が自ら考え、上位の系のために行動することもある。
 
■好意の返報性 
 AがBのために行動したいと考え、それがBの求めているものであれば、BはAのために尽くす。
 それは個体同士の関係でも、個対集団でも成り立つ。
 
■遅いことによる衝突と早いことによる衝突 
 あるアクションを起こす人または組織はその上位の組織から望まれないことがある。
 その理由には二つある。一つは上位組織が過去に望んだ状態のままであること。
 上位の情勢が変化しているため、自らの存在意義が変わり、自らが変化するためにはその部分にも変化してもらわなければならない。
 それを実行する際には古い基準を持つ者には変わってもらう。または代わってもらわなければならない。
 もう一つは上位の組織のその上位の組織の意をくみ、行動する者。
 つまり直上の組織を古いものと考える部分である。
 直上の組織からすればその部分は古い基準を持つ者と同様に、自らの意に沿わない者と映る。
 
■はるか未来を見る人 
 未来が見える者ほど大きな組織や遠い先の存在と対話ができる。
 そして、その対象の望む物を提供するためには大きな組織や相対的に近い未来、近い過去の意思しか見えない者からは疎まれる。
 大きな変化を起こす者は、大きな組織から疎外され、同時代の人から理解されない。
 しかし、同時に自らを阻害するものより、さらに強いものから庇護を受ける。
 遠い未来の人や遠い過去の人から評価される。
 なぜなら大きな組織の強制力、長い時空を管理する概念の強制力は緩やかだが強いからである。
 その時にはるか未来を見る人の取るべき行動は自らを疎むものに対抗することではない。
 自らがその大いなる意思の実行者であることをその大いなる意思に認めさせることである。
 大きな視点の存在そのものからすれば自らの目的を達成するものは特定の下位組織や個体である必要はなく、
 正しく自分の意をくみ取る存在である。
 大きく時間や場所が異なれば問題となるが、小さい差であれば同様の変化が起これば全体としてのつじつまが合うため、
 「何を」が正しくなされれば、いつ、どこで、誰が、どのように行うかを強く縛るものはない。
 実際はそれぞれの条件を荷重検討し、どのように変化させるかを考えるが、優先順位の第一は変わらない。
 人が何か目的をもって決める時と、組織が何か目的をもって行う時と同様である。

人生の真の敗北者

人生には勝者や敗者がいるという。
何を以って敗者と言い、何を以って勝者と言うのだろうか。
幸せな人生を送り、子供を作り、その子供もまた幸せの道を歩み続けるだろうと確信したものは勝者だろうか。
不幸な生い立ちで、負の感情を背負いながら子を成せずに死んだものは敗者だろうか。
現在地球上に生きている人間で、百年後の地球に生きている人間の祖先になれたものはどれくらいいるだろう。
数%か数十%だろう。
では二百年後の人間の祖先になれるものはどれくらいだろう。
千年後では?
「そんな先の話は知らないよ」
と言う声が聞こえてきそうだ。
ではなぜ数十年か百年程度先を予感しただけで満足なのか。
百年後には子孫はすべて滅びましたという人は、子を成せずに死んだ人を笑えるのだろうか。
二百年後に子孫が滅んだ人は百年後に子孫が滅んだ人を笑えるだろうか。
自分を勝利者だと言う割にその期間に対してはひどく曖昧で、とても短い期間を勝手に設定されていないだろうか。
勝利の定義を誰も決めていないのにそれがあたかも存在するかのように勘違いしている人が多いのではないか。
しかし、人はいつか必ず滅ぶものである。
人に限らず、すべての種は必ずどこかでその終焉を迎える。
それは、個体数が少しずつ減っていくことによるものかもしれないし、ある日突然地球からすべての生命が
消滅することによるかもしれない。
期間をとても長く設定すれば、それは100%必ず起きることである。
その視点で言えば、勝者など存在し得なくなる。
では、種と言う視点も含みつつ、それぞれの個体が持つべき目的や存在理由とはどうあるべきだろうか。
生命のすべての営みは環境に対する最適解の提示なのである。
そして環境の方も時代、場所により様々である。
さながら数え切れない状況それぞれに対する全パターン検索である。
つまり、この状況に対して、この様な試行を行ってみた。結果成功した、失敗した、である。
数え切れないパターンの状況に対して、数え切れない試行錯誤が成され、その結果一つ一つが人生と呼ばれたりする。
一つの個体のできることといったら、一つの状況に対する答えを導き出すこと。
ならば、その試行を最も適切に行うとは、「何を環境と定義するか」
それに対して、「どのように試行するか」を明確にすることである。
その二つができているのなら、結果が成功したか、失敗したかはどちらでもよい。
なぜなら目的は、その方法が成功するか失敗するかを「確認すること」だから。
志半ばで命を落としたものも、成し遂げたものも同列である。
一方、どのパターンに対する回答の提示なのかを明確にしなかったものは、
仮に幸せと言えるような人生だったとしてもその存在価値は低かったと言わざるを得ない。

愛とは

「眼鏡は顔の一部です。」というフレーズのコマーシャルがあった。何故かとてもインパクトのあるフレーズ。
この言葉を額面どおり受け取ってみる。眼鏡は顔の一部といえるのか。
または人間の体の一部だと言えるのだろうか。
眼球の働きというのは可視光線を瞳にレンズを通して焦点を調節し、網膜に写すという機能を持っている。
その情報が神経を伝わり脳に映像を認識させる。
視力が低い人にとって、瞳の機能を補佐する眼鏡は身体機能の一部を担っているといえる。
そこで、ある人の眼鏡が壊れたとしたらどうだろうか。
その人は落胆するだろう。
しかしその落胆は眼鏡の金額的価値に対するものだ。
店でまた眼鏡を買わなければならないという損失に対してのものだ。

ところが、もし世界にその壊れた眼鏡以外に眼鏡や視力を補正する技術が無いとすれば事情は変わってくる。
自分の視力を補正する手段が無いため、自分の身体的機能が落ちる事に直結する。
この場合、眼鏡の存在が自分の体の一部であることと同等となる。
代替性が無いという条件によって。

もし他に視力を補正する技術が無い世界で、たった一つの眼鏡を所有し、使用している人がいたとしたら、その人は眼鏡をとても大切に扱うだろう。
自分の体と同じ重要度で。
この前提は現実世界ではまず考えられない。
しかし例えば職人は何年もかけて自分の手になじませた道具に対して愛着を持つ。
これは同じ理由によるものだ。
いろいろな人がそれぞれ定義を持つ概念だが、これはひとつの説得力のある答えだといえるだろう。
「愛情とはかけがえの無いものに対してささげるもの」
しっくりくる。